なぜかを独りで考える

本と筋トレと人生

政治と哲学の意味

政治について話したがる人はあまりいないでしょう。

もし居るとしたら間違いなく嫌われている。

でもここ数年の政治の動向や発言を振り返ると、

政治について様々な違和感を覚える。

 

では、その違和感はどこから生まれてくるのだろう?

この感覚自体はとても個人的なものであるけれど、

多くの人々が同じように感じ始めているのも事実だと思います。

だから大学4年になったいま、大嫌いだったブログを使ってでも

自分の言いたいことを残しておこうと思った次第です。

しばしの間お付き合いください。

 

「政治」と聞くとみなさんは何を思い浮かべるでしょうか?

普段政治について考える余裕もない人は、国会で議論するおじさんやおばさん

などが頭に浮かぶのでしょうか(知らんけど)。

すこし真面目な大学生なんかは自民党憲法9条や共謀罪カジノ法案など

具体的なもの想像し、

政治を専門に勉強している人であれば、ウェーバーの言葉を借りて

権力の配分関係がなんちゃらと説教じみた解説を始めるかもしれません。

恥ずかしながら私自身、「政治とは何か」という問いを真剣に考えたことはありません。

 

「考えておけよ!」

 

と思っても怒りを鎮めてください。

とりあえず、権力を駆使して影響力を行使する営み全般というところでしょうか。

はい、よくわかりませんね。でも政治全般を抽象的に定義するとこんな感じだと思います。(少なくとも「権力」という言葉はキーワードでしょう)

 

しかし!

 

私がここで書こうと思っていることは政治の定義でも改憲についてでもない。

最初に立ち返ろう。

政治についてモヤモヤした時、私が思うのは以下のことである

 

「哲学すりゃええやん」

 

である。その都度違和感は変わる(”感じ”なので)が最終的にはこうなる

こんなこと言うと、悪口が聞こえてきそうだ。

「とうとう頭おかしくなったか」、「あいつは陰キャだから」などなど

ひとまず聞いてほしい(読んでほしい)

 

そもそも哲学とは何か。

西田幾多郎は哲学を定義して、

「哲學とは知識の最高の統一である」(『哲學概論』p.13)と述べている。

 

おそらく哲学に求められてきた仕事というものは時代によって異なるでしょう。

論理実証主義の哲学やドイツ観念論の哲学は同じ哲学であっても内容やその実際は全く異なります。

そのような中で、哲学をまがいなりにも勉強している私が哲学を定義するなら

 

「当たり前を論理的に築き上げる努力」

 

だと思うのです。

ところで、哲学には懐疑という方法があります(詳しくはデカルトを勉強してください)

これを日常の場面における広い文脈に使ってみましょう。

そうすると皆さんも考えたことがあるかもしれない問いがいくつも浮かびます。

例えば、

 

「人間は何のために生きるの?」

「今話しかけてるお母さんが生きているってどうやって知るの?」(他者の問題)

 

といった類のものです。

 

これらの問いに対して哲学は真剣に取り組み、理論構築をしてきました。

そしてまた別の理論が出てきてパラダイムシフトが起こったり起こらなかったり。

では、私が出した哲学の定義を見直してみましょう。

このような場面を想像してください。

 

多くの日本人が仕事こそ人生だと思っている時代にいます。

しかし、そこに西洋的な価値観、家族を大事にしたり友人との時間を過ごす

ことを大切にするという価値観に遭遇します。

そうするとあなたはどう思うでしょうか。

 

仕事こそ人生という人生観(当たり前)が崩壊し、

今までの人生観に疑問を抱きます(懐疑)

あなたは西洋的な人生観と今までの人生観を材料としながら

目指すべき人生観を模索し始めるでしょう。(哲学をする段階)

そして数カ月後にはあなたの目指すべき人生観がはっきりするのです

(新しい当たり前)

 

このようにあらゆることについて論理的に考えながら確固とした結論を導こうとすることが、哲学をする際に行われていることなのです。

 

これは実際にあらゆる場面で行われているはずです。

しかし、哲学はより深い根本的なところまでをカバーするのです。

 

例えば、「人権は守るべきである」ということを議論すると

多くの人は人権を守ることによってどんな利益があるか等を議論します。

しかし、これでは十分ではありません。あなたが使う言葉の一つ一つを検討して

定義してはじめてあなたの確固たる意見となるのです。

人権とは何か、権利とは何か、すべきとはどういう意味か。

これらの反省を踏まえた議論はとても強いものとなるでしょう。

 

そして何よりも、このようなプロセスは国民主権なんかを掲げる国の政治

には必要不可欠なのです。

 

でももうひとつ書かなければならないことがあります。

それはあなたの意見は決して正解にはならないということです。

 

理由は簡単で

あなたも私も限られた自分の世界で生きているからです。

 

だからこそ議論が必要になるのです。

理想は反対意見を聞くこと。

あなたの意見と他人の意見を戦わせることによって、

より多くの人を考慮できる意見を形成できるようになるのです。

もしあなたが、人間は平等であるという考えを友人から聞かされて

そのまま鵜呑みにしているのであれば、これほど情けないことはありません。

 

どんなに全うで真理に近いような意見であっても、

押し付けがはじまれば、それはミルの言う「多数者の暴虐」であり

民衆がみんな同じ意見を疑問もなく共有すればキルケゴールの言う

「水平化」というものです。

 

今の政治は国も国民もこれらのプロセスをなおざりにして、

自分の言いたいことやりたいことだけを考えているように見えるのです。

変化のスピードも段違いとなったこのご時世。

変化に追いつくスピードのある対処が必要だ!という言葉は政治に適用してはいけない

と思うのです。

 

そもそも、かしこが集まっても一億人のことを決められるはずがない。

時間をかけ過ぎるのはよくないけど、

今の状況はあまりにエコモードではないかと。

 

これらを踏まえて、今の身の回りの問題や政治の問題について

考えると違う見え方に出会えるのではないでしょうか。

一応自己紹介

はじめまして

 

需要は全くないと思いますが、一応自己紹介の記事を作っておきます。

 

私はMARCHに通う学生で、現在4年になります。

大学では倫理学や哲学を学び、趣味はウェイトトレーニング

 

哲学と筋トレという組み合わせはあまりイメージできないかもしれません。

たしかに滅多にいないと思います。

自分で言うのもなんですが、

大学ではレアキャラの部類に入ると思います。

 

見た目は近寄りがたく、話せば理屈っぽい。

 

付き合いたくない人トップ3は確実でしょうか。

 

お察しの通り友達は多くありません。いわゆる陰キャです。

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そんな僕がやる当ブログですが、

 

「なぜ」と思ったことについて、

自分の考えをアウトプットするために始めました。

 

読んでも読まなくてもいいです。

 

気になったら読んでください。

 

ただ、なるべく読む価値のありそうな内容にはしたいと思います。

ブログですが、参考文献もできる限り載せます。

 

これからどうぞよろしく